「言語」と口にするとき、私たちは実はいくつもの別々のものを一緒くたにしています。口や舌の動き、空気の振動、頭のなかの意味、社会の習慣、書き言葉……。ソシュールは『一般言語学講義』で、この塊を langage(ランガージュ)/ langue(ラング)/ parole(パロール) の三つに切り分けました。この記事は、その一点だけを、本から引用しながらゆっくり見ます。本全体の見取り図は「概要」に、記号の話を含むやさしい通し読みは「やさしく読む(前半)」にあります。

引用は1916年のフランス語原典(Payot 版、序論・第3〜4章)から。日本語訳は L/LAB によります。

なぜ分ける必要があったのか

それまでの言語研究は「昔の形と今の形を比べる」「祖先の言語を復元する」という歴史の研究が中心でした。ソシュールはその手前で立ち止まります。そもそも言語学は何を対象にする学問なのか。

困ったことに、ことば全体はあまりに雑多です。物理(音波)、生理(発声と聴取)、心理(意味と音のイメージ)にまたがり、個人のものでもあり社会のものでもあり、いま動いている仕組みでもあれば過去の産物でもある。ソシュールは書きます——「全体として捉えれば、言語活動は多形的で異質だ」(Pris dans son tout, le langage est multiforme et hétéroclite、第3章)。これでは「これが対象だ」と一つに定められません。

有名な一句があります。「対象が視点に先立つのではない。むしろ、視点が対象をつくると言うべきだ」(Bien loin que l’objet précède le point de vue, on dirait que c’est le point de vue qui crée l’objet、第3章)。だから、まず視点を決めて対象を切り出す必要がある。

langage:ことば全体、そして話す能力

langage は、ことばに関わるものすべての総体であり、同時に「話す能力」そのものです。ソシュールによれば、人間に自然に備わっているのは特定の音声言語ではなく、「言語をつくる能力、すなわち区別される観念に対応する、区別される記号の体系をつくる能力」(la faculté de constituer une langue, c’est-à-dire un système de signes distincts correspondant à des idées distinctes、第3章)です。失語症の観察も、失われるのは特定の音を出す力というより「記号を司る、より一般的な能力」(une faculté plus générale, celle qui commande aux signes)のほうだ、という方向を指し示します。

langage はそのままでは科学の対象になりません。そこからソシュールは二つを取り出します。

langage langue parole ことば全体 +話す能力 共有された 記号の体系 その場の 個別の発話 個人でも社会でも 社会のもの 個人のもの (雑多で対象外) たとえ:ルールブック たとえ:一つ一つのプレー ← 言語学が扱うのはここ
三語の関係。langage という全体から、社会的な体系 langue と個人の行為 parole を切り分ける。図:L/LAB

langue:切り出された「体系」

langue は、langage から取り出した、ある社会が共有している記号の体系です。ソシュールの定義では、それは「言語活動という能力の社会的所産であると同時に、その能力を個人が行使できるように社会集団が採用した、必要な約束事の総体」(C’est à la fois un produit social de la faculté du langage et un ensemble de conventions nécessaires, adoptées par le corps social pour permettre l’exercice de cette faculté chez les individus、第3章)。そして、雑多な langage と違って「それ自体で完結した全体であり、分類の原理」(un tout en soi et un principe de classification、第3章)です。

たとえるなら、langue はサッカーのルールブック。共同体のメンバーの頭にほぼ同じ内容が入っていて、個人が勝手に書き換えることはできません。ソシュールは踏み込んでこう言います——「言語は話す主体の機能ではない。個人が受動的に記録する所産だ」(La langue n’est pas une fonction du sujet parlant, elle est le produit que l’individu enregistre passivement、第3章)。

ことばの回路:どこで線が引かれるか

langue と parole の境目は、二人の会話を分解すると見えてきます。話し手 A の頭のなかで「概念」が「音のイメージ」を呼び起こし(心理)、脳が発声器官に指令を送り(生理)、口から耳へ音波が飛び(物理)、聞き手 B の頭では逆に「音のイメージ」から「概念」へ戻る。B が答えれば、同じ道を逆向きにたどります。

A B 概念 → 音のイメージ 音のイメージ → 概念 発声 → 音波 → 聴取 langue が宿るのはこの区間 回路を実際に動かす行為(parole)はつねに個人のもの
ことばの回路。生理・物理の部分と「実行する側」を取り除くと、音のイメージと概念が結びつく狭い区間=langue が残る。図:L/LAB

この回路から「社会的な事実」だけを取り出すために、ソシュールは順に切り落としていきます。まず物理の部分(知らない言語を聞くと音は聞こえるが、理解できないので社会的事実の外にいる)。次に「実行する側」——「実行は決して集団によってなされない。つねに個人的であり、個人がその主人だ。これを parole と呼ぶことにする」(l’exécution n’est jamais faite par la masse ; elle est toujours individuelle, et l’individu en est toujours le maître ; nous l’appellerons la parole、第3章)。残るのが langue で、それは「発話の実践によって、同じ共同体に属する人々のなかに蓄えられた宝」(un trésor déposé par la pratique de la parole dans les sujets appartenant à une même communauté、第3章)——音のイメージが概念と結びつく、ごく狭い区間に位置します。

parole:その場の、一回きりの行為

parole は、その体系を使って個人がいま実際に話す行為です。ソシュールはこれを「意志と知性による個人的な行為」(un acte individuel de volonté et d’intelligence、第3章)と呼び、二つを区別します——(1)「話す主体が自分の思考を表すために言語のコードを用いる組み合わせ」(les combinaisons par lesquelles le sujet parlant utilise le code de la langue en vue d’exprimer sa pensée personnelle)、(2)「その組み合わせを外に出すための心理物理的な仕組み」(le mécanisme psycho-physique qui lui permet d’extérioriser ces combinaisons)。自由で、一回きりで、langue と違って集団の道具ではありません。

二つの式

ソシュールは langue と parole の存在の仕方を、二つの式で対比します。

langue は「各人の脳に蓄えられた刻印の総和として、共同体のなかに存在する。あたかも、同一のすべての部数が個人のあいだに配られた一冊の辞書のように」(une somme d’empreintes déposées dans chaque cerveau, à peu près comme un dictionnaire dont tous les exemplaires, identiques, seraient répartis entre les individus、第4章)。だから足し合わせても一つになります——「1 + 1 + 1 + 1… = 1(集団的モデル)」(modèle collectif、第4章)。

一方、parole には「集団的なものは何もない。その現れは個人的で瞬間的だ」(Il n’y a donc rien de collectif dans la parole ; les manifestations en sont individuelles et momentanées、第4章)。式は (1 + 1′ + 1″ + 1‴…)

話し手1…n(同じ中身) = 1 1 + 1 + 1 + 1 … = 1 LANGUE PAROLE 個別の発話が積み重なるだけ ( 1 + 1′ + 1″ + 1‴ … )
langue は同一のコピーが束ねられて一つになる(1+1+…=1)。parole は形の違う行為の集まりで、一つにはまとまらない。図:L/LAB

交響曲のたとえ

ソシュールは言います——「言語は交響曲にたとえられる。その実在は、演奏の仕方から独立している。奏者が犯しうる誤りも、その実在をいささかも損なわない」(on peut comparer la langue à une symphonie, dont la réalité est indépendante de la manière dont on l’exécute ; les fautes que peuvent commettre les musiciens qui la jouent ne compromettent nullement cette réalité、第4章)。発声器官が言語にとって外部なのは、「モールス符号を書き取る電気装置が、その符号にとって無縁であるのと同じ」(les organes vocaux sont aussi extérieurs à la langue que les appareils électriques qui servent à transcrire l’alphabet Morse sont étrangers à cet alphabet、第4章)。

langue = 楽曲そのもの parole = 演奏(弾き間違いもある) 演奏をどう外しても、曲そのものは変わらない
楽譜(langue)と演奏(parole)。ミスは演奏の側の出来事で、曲そのものには触れない。図:L/LAB

切り離せる、でも支え合っている

langue と parole を切り離すことは、同時に二つの切り分けをすることです——「①社会的なものと個人的なもの、②本質的なものと、付随的で多かれ少なかれ偶然的なもの」(1° ce qui est social de ce qui est individuel ; 2° ce qui est essentiel de ce qui est accessoire et plus ou moins accidentel、第3章)。

それでも二つは互いを必要とします。「言語は、発話が理解され効果を生むために必要だ。だが発話のほうも、言語が成立するために必要だ。歴史的には、発話の事実がつねに先立つ」(la langue est nécessaire pour que la parole soit intelligible… mais celle-ci est nécessaire pour que la langue s’établisse ; historiquement, le fait de parole précède toujours、第4章)。母語は他人の発話を聞くことで「無数の経験のすえに、ようやく脳のなかに沈殿する」。ことばを変えていくのも parole の側です。ソシュールはまとめます——「言語は、発話の道具であると同時にその産物でもある。だが、そのことは両者がまったく異なる二つのものであることを妨げない」(deux choses absolument distinctes、第4章)。

最初の分かれ道

「これは、言語の理論を立てようとするとき最初に出会う分岐だ。同時にはたどれない二つの道のどちらかを選ばなければならない。二つは別々にたどられるべきだ」(Telle est la première bifurcation… Il faut choisir entre deux routes qu’il est impossible de prendre en même temps ; elles doivent être suivies séparément、第4章)。ソシュールが選ぶのは「本来の言語学、すなわち言語だけを唯一の対象とするもの」(la linguistique proprement dite, celle dont la langue est l’unique objet、第4章)です。

なぜ今も効いているのか

この三分割は、言語学に自前の対象を与えた一手でした。記号(能記と所記)、共時態と通時態、差異による価値——『講義』の主要概念はすべて langue の上に立っています。20世紀には、この「体系として見る」視点が人類学・文学理論・哲学へ広がり、構造主義と呼ばれました。チョムスキーの competence(言語能力)と performance(言語運用)の区別は、力点は違うものの langue / parole の遠い反響です。逆に、語用論や談話分析は「parole の言語学」を後から立て直した試み、とも読めます。

用語の注意

ソシュールは「私たちは語ではなく事柄を定義した」と念を押しています。日常の語彙はこの三分割に対応していません——「ドイツ語 Sprache は『langue(言語)』と『langage(言語活動)』の両方を意味し、Rede はほぼ『parole』にあたる。ラテン語 sermo はむしろ『langage と parole』を、lingua は『langue』を指す。上で示したどの概念にも、ぴったり対応する語はない」(Aucun mot ne correspond exactement à l’une des notions précisées plus haut、第3章)。日本語では慣例として、langue=言語(ラング)、parole=パロール、langage=言語活動、と訳し分けます。


同じ本の全体像は「概要」、記号と体系の話まで含むやさしい通し読みは「前半」「後半」へ。